純資産の6倍ののれんは何に払われているのか ── EC事業の「見えない資産」の値づけ
「うちは決算書が地味なので、たいした値段はつかないですよね」。EC事業の売却相談で、初回に最も多く出る言葉です。
決算書に載っているのは、現金・売掛金・在庫・設備の4つ。EC事業でこれを全部足しても、買い手が実際に払う金額には届きません。中小企業庁の集計では、インターネット附随サービス業の譲渡価額は純資産の7.0倍が中央値。帳簿に載っていないものに、純資産の6倍が払われています。
ただし、見えない資産のすべてに値段がつくわけではありません。買い手が金額を出すのは、譲渡した後も引き継げると確認できたものだけ。同じ「顧客リスト10万件」でも、値段になるものとゼロになるものがあります。
この記事の結論は次の4つです。
- 見えない資産の値段は、のれん(営業権)として出ます。インターネット附随サービス業のPBR中央値は7.0倍で、純資産の6.0倍がのれんです(中小企業庁・2024年度)
- 買い手が確かめるのは、名義と承継可否の2点。商標が他社名義、広告アカウントが代理店名義、独占販売権が株主の交代で切れる。どれも資産として数えられません
- 顧客リストは、件数ではなく引き継げる範囲で見られます。事業の承継に伴う個人データの提供は第三者提供に当たりません。ただし承継後に使えるのは、承継前の利用目的の範囲内だけです
- 代替が効かないものに、長い年数がつきます。営業利益が3期で半減した会社に、営業利益6.9年分ののれんがついた取引が実在します
見えない資産の値段は、のれんとして出る
決算書に載らない価値は、譲渡価額が純資産をどれだけ超えたかという形で、公表データの中に出ています。
PBR(譲渡価額が純資産の何倍か)を見ると、業種でまったく違う世界が同居しています。
| 業種(中分類) | PBR中央値 | のれん÷純資産 | サンプル |
|---|---|---|---|
| インターネット附随サービス業 | 7.0倍 | 純資産の6.0倍 | 27件 |
| 情報サービス業 | 2.3倍 | 純資産の1.3倍 | 123件 |
| 飲食料品小売業 | 2.0倍 | 純資産の1.0倍 | 48件 |
| その他の小売業 | 1.3倍 | 純資産の0.3倍 | 102件 |
| 卸売業・小売業(全体) | 1.2倍 | 純資産の0.2倍 | 461件 |
インターネット附随サービス業では、純資産の6倍ののれんがついています。純資産100に対して、帳簿の外にあるものへ600が払われた計算。この600の中身が、見えない資産です。
同じ表の下側では、のれんが純資産の0.2倍から0.3倍しかつきません。差を作っているのは業種名ではなく、帳簿に載らない資産をどれだけ持ち、それをどれだけ引き渡せるかです。
買い手が確かめるのは、名義と承継可否
買い手は見えない資産を「良いか悪いか」で見ません。見るのは、誰の名義か、譲渡した後も残るかの2点です。
売り手が価値だと思っているものが、調査(デューデリジェンス)で資産から外れる場面はよくあります。理由はほぼこの2点のどちらか。名義が売り手のものでない、または株主が変わると消える。
| 見えない資産 | 買い手が確かめる方法 | 値段の変わり方 |
|---|---|---|
| 買い続けている顧客 | 定期の継続率、購入回数別の人数分布、休眠比率を管理画面の実データで確認 | 来月の売上が読めるほど、のれんの年数が伸びる |
| メール・LINEの到達 | 直近3か月の開封率・クリック率・配信停止率 | 反応の取れない登録件数は、金額に入らない |
| モールのレビューと販売履歴 | アカウント開設年、累計レビュー数と平均評価、規約上の承継可否 | 承継できれば新規参入者の広告費の代わりになり、できなければゼロ |
| 広告アカウントと計測基盤 | 名義が自社か代理店か個人か。学習データが移るか | 個人・代理店名義なら、引き継いだ日に獲得効率が落ちる前提で減額 |
| 商標・意匠 | 登録番号と権利者名義、区分が実際の商品を覆っているか | 他社名義・未登録は、ブランド名の値段を消す |
| 独占販売権・総代理店契約 | 契約書の残存期間と、株主が変わったときの解除条項 | 買収で切れる契約は、資産として数えない |
| 独自商品・自社企画品 | 仕様書・金型・レシピの名義。製造元を替えられるか | 誰でも仕入れられる商品との差が、そのまま倍率の差 |
| 手順書と外注体制 | 誰が何を何時間やっているかの一覧。代表の離脱後の担当者名 | 属人性が残るほど、後払い(アーンアウト)の比率が上がる |
表の右列を見ると、増減の向きが2種類あることが分かります。「伸びる」ものと「消える」もの。伸びるほうは時間をかけて積み上げるしかありませんが、消えるほうは名義の移転や契約書の1条項で防げます。売却準備で先にやるべきは、消えるほうです。
顧客リストは、件数ではなく引き継げる範囲で見られる
顧客データは、譲渡そのものより「譲渡後に何に使えるか」で値段が変わります。
法律の枠組みから確認します。個人情報保護法第27条第5項第2号により、合併・分社化・事業譲渡などで事業が承継されるときの個人データの提供は、第三者提供に当たりません。本人の同意もオプトアウトの手続きも不要です。顧客リストは、法律上は問題なく引き継げます。
ここから先が本題です。同法第18条第2項は、承継した側について次のように定めています。
個人情報取扱事業者は、合併その他の事由により他の個人情報取扱事業者から事業を承継することに伴って個人情報を取得した場合は、あらかじめ本人の同意を得ないで、承継前における当該個人情報の利用目的の達成に必要な範囲を超えて、当該個人情報を取り扱ってはならない。
引き継げる範囲は、売り手が過去に書いた利用目的の文面で決まります。プライバシーポリシーの利用目的が「当社商品の発送および当社からのお知らせ」しか書いていなければ、買い手はグループの他ブランドの案内に使えません。承継後に範囲を広げるには、あらためて本人の同意が要ります。
買い手にとってのLTV(1人の顧客が取引期間中に払う金額の合計)は、この範囲の内側でしか計算できません。同じ10万件でも、利用目的の書き方ひとつで、買い手の試算が変わります。
もう1点、実務で見落とされる規定があります。個人情報保護委員会のガイドライン(通則編)は、契約を結ぶ前の交渉段階で相手会社の調査を受け、自社の個人データを渡す場合も同じ扱いだと明記しています。ただし利用目的・取扱方法・漏えい時の措置・交渉が不調に終わったときの措置を定めた契約を、渡す前に結ぶことが条件です。調査で顧客データを見せる場面は、この契約なしには進みません。
レビューとアカウントの歴史は、承継できるかで別物になる
モールで積み上げたレビューと販売履歴は、後から買えません。だからこそ、承継できるかどうかで評価が0か100かに割れます。
新規参入者が同じ商品を同じ価格で並べても、レビュー数百件の差は埋まりません。検索順位も販売履歴の上に成り立っています。買い手はここを「自力で作ったら広告費がいくらか」で換算します。
判断が分かれるのは、その資産の引き渡し方です。株式譲渡なら会社が持つアカウントはそのまま残りますが、事業譲渡ではアカウントの承継可否がプラットフォームの規約と手続き次第になります。スキーム(株式譲渡か事業譲渡か)を決める前に確認する項目です。株式譲渡と事業譲渡の違いは会社ごと売るか、事業だけ売るか ── 税率20.315%とアカウント承継で決まる選び方で説明しています。
あわせて確認されるのが、そのレビューの作られ方です。レビューへの対価はステマ規制の対象で、モール側の処分は「疑い」の段階で先に発動し、証明する責任は出店者側にあります。過去の施策に対価が絡んでいないかは、買い手が必ず聞きます。
商品と権利は、名義で決まる
権利は、持っているかどうかではなく、誰の名義かで資産になるかが決まります。
- 独自商品・自社企画品。誰でも仕入れられる商品との差が、そのまま評価の差になります。確認されるのは仕様書・金型・レシピの名義と、製造元を替えられるかどうか。実質的に製造元が握っている状態なら、買い手が買っているのは商品ではなく発注権にすぎません
- 商標・意匠。ブランド名が守られているか。名義が法人か、代表個人か、退職した外注先か。区分が実際に売っている商品を覆っているかも見られます
- 独占販売権・総代理店契約。「ここでしか買えない」は、それ自体が金額になります。ただし契約に株主の交代で解除できる条項(チェンジ・オブ・コントロール条項)が入っていれば、買収の当日に消える可能性があります
当社(CommerceX M&A)の見解では、独占販売権も商標も、売り手の名義でなければ資産として数えられません。名義と、株主が変わったときに契約が続くか。この2つが確認できるまで、当社は評価に入りません。
未登録の商標は、売却の前でも出願できます。権利になるまでに時間はかかりますが、出願中であることと、何も動いていないことでは、買い手の受け取り方が違います。
代替が効かないものに、長い年数がつく
利益が落ちていても、他社が代われない資産があれば値段はつきます。
適時開示で確認できる取引がその実例です。アパレルD2C「Her lip to」を運営するheart relationは、営業利益が3期で580百万円→568百万円→307百万円と半減していました。それでもyutoriが2024年8月に51%を取得した株式の代金は1,683百万円。営業利益の6.9年分にあたります。しかも2026年4月に残る49%を約19億6,000万円で取得しており、1株あたりの評価は1回目より2回目のほうが高い。
決算書の側から見れば、利益が半減した会社です。買い手が見ていたのは、小嶋陽菜氏という替えのきかない資産でした。yutoriには、ほかに買えるものがありませんでした。
買われているものが決算書の外にあると分かる例が、もう1件あります。2026年8月28日、ECプラットフォームのBASEにSBIホールディングスの子会社からTOB(株式公開買付け)が入りました。買い手が取りに来たのは利益ではなく、BASEの決済基盤・加盟店ネットワーク・IDです。
当社が買収後の伸びしろを見るときの順番も、ここから決まります。販路を広げる、広告を増やす、値上げをする。買った後にできることは増幅装置でしかありません。土台の商品が他社に代われるものなら、どれをやっても利益までは伸びない。だから最初に見るのは、その商品が他社に代われないかどうかです。
「あなたがいなくても回る」は、紙で証明する
同じ利益の事業が2つあれば、買い手は手順書と外注体制で回っているほうに高い値段をつけます。
経営者の頭の中だけで回っている事業は、買い手から見ると、買った翌日に中身が半分消える資産です。ここで持ち出されるのがロックアップ(一定期間、売り手が残る約束)ですが、期間の長さは解決になりません。
代表の齋藤は、この論点で買収を見送ったことがあります。「一定期間の引き継ぎを条件にしても、代表が抜けた後に組織が回らないなら、問題の先送りです。買い手が見ているのは拘束期間の長さではなく、離れた後に残る仕組みです」
証明の材料は3つあります。
- 誰が何を何時間やっているかの一覧。代表の稼働が何時間で、そのうち代替できない業務が何時間か
- 業務手順書。広告の運用、商品ページの作成、問い合わせ対応、発注。文章が下手でも、書いてあること自体が証拠になります
- 判断基準の文書化。上限CPO(1件の注文を取るのにかけてよい広告費の上限)、値引きの決裁ライン、仕入の発注点。数字で決まっていれば、判断も引き継げます
属人性が残るほど、価格は後払い(アーンアウト)に寄ります。手元に入る金額が減るのではなく、受け取る時期が後ろにずれて、達成の条件がつきます。
見えない資産の棚卸し表
見えない資産は、出す形を決めた時点で資産になります。「ある」と口で言うだけのものは、買い手の計算に入りません。
| 資産 | 買い手に渡す形 | 無いときの代わり |
|---|---|---|
| 顧客データ | 会員数、購入回数別の人数分布、定期の継続率、休眠比率 | 直近12か月の受注データの生ファイル |
| 連絡手段 | メール・LINEの登録数と、直近3か月の開封・クリック率 | 配信ツールの管理画面の画像 |
| 販売実績 | モール別の出店年数、累計レビュー数と平均評価 | 各モールの管理画面から出力した実績 |
| 検索の資産 | 主要キーワードの順位と、ブランド名での検索数の推移 | 解析ツールの流入内訳(自然検索と広告の比率) |
| 商品 | 自社企画品の売上比率、上位商品のリピート率 | 商品別の売上と粗利の一覧 |
| 権利 | 商標・意匠の登録番号と名義、区分。独占販売権の契約書 | 出願中であることの証跡 |
| 仕入・外注 | 主要仕入先との取引年数、最低発注数量、納品までの日数 | 直近1年の発注履歴 |
| 仕組み | 業務手順書の一覧と、属人化している業務の一覧 | 代表の1週間の稼働の内訳 |
| 発信 | SNSアカウントの名義、フォロワー数と反応率、UGC(顧客の投稿)の数 | 直近の投稿別の反応データ |
全部が揃っている必要はありません。揃っていないものは「無い」と書けばよく、隠さなかったことが調査を短くします。この一覧は、そのまま企業概要書の材料になります。
この記事のまとめ
- EC事業の値段の大半は帳簿の外にある。インターネット附随サービス業のPBR中央値は7.0倍で、のれんは純資産の6.0倍
- 買い手が確かめるのは、名義と承継可否の2点。他社名義・株主の交代で切れる契約は、資産に数えない
- 顧客リストは件数ではなく、承継前の利用目的の範囲で評価される。範囲を決めているのは過去に書いたプライバシーポリシー
- モールのレビューと販売履歴は、スキーム次第で0か100に割れる。価格の議論より先に確認する
- 代替が効かない資産があれば、利益が半減していても営業利益6.9年分がつく
- 属人性が残るほど、価格は後払いに寄る。証明は稼働の一覧・手順書・判断基準の3点
- 見えない資産は、出す形を決めなければ買い手の計算に入らない
よくある質問
Q. SNSのフォロワー数は価値になりますか。
A. 件数そのものは評価に入りません。買い手が見るのは投稿への反応率と、売上につながっている導線の有無です。アカウントの名義も確認されます。代表個人の名義で、譲渡後も代表が使い続けるなら、買い手はそれを買えません。フォロワー1万人で反応のないアカウントより、3,000人で毎回売上が動くアカウントのほうが金額になります。
Q. 商標を取っていないと売れませんか。
A. 売れます。ただしブランド名が価値の中心にある事業なら、取っていないぶんだけ金額が下がります。日本の商標は先に出願した人が権利を取る制度で、他社に先を越されれば自社のブランド名が使えなくなる可能性も残る。売却の直前でも出願は可能です。権利になるまで時間はかかるものの、出願中という事実は調査の場で説明できる材料になります。
Q. 顧客リストを買い手に見せるのは、個人情報保護法に触れませんか。
A. 触れません。事業の承継に伴う個人データの提供は第三者提供に当たらず、本人の同意は不要です。契約前の調査の段階で見せる場合も同じ扱いですが、利用目的・取扱方法・漏えい時の措置・交渉が不調に終わったときの措置を定めた契約を先に結ぶことが条件です。実務では、氏名や住所を伏せた集計データから開示し、進行に応じて範囲を広げます。
Q. 見えない資産の棚卸しは、どの数字から始めればよいですか。
A. 定期の継続率と、購入回数別の人数分布の2つからです。この2つは受注データがあれば今日出せます。買い手が来月の売上をどれだけ読めるかを決める数字で、のれんの年数に直接つながります。次が広告アカウントと商標の名義の確認。こちらは調べるだけで済み、問題が見つかっても売却前なら直せます。
ご相談ください
この記事の結論は「見えない資産の値段は、名義と承継可否で決まる」でした。名義と契約条項は、売却の前なら直せます。
売却をお考えの方へ。当社はEC・コマース事業の企業価値査定を無料で行っています。決算書に載らない資産まで含めて評価し、名義や契約条項に金額が消える箇所があれば、査定の段階でお伝えします。「うちの決算書は地味だから」とお考えの会社ほど、帳簿の外に金額が残っています。売る・売らないを決める前の段階からご相談いただけます。
買収をお考えの方へ。当社が公表情報から集めたEC・D2Cの買い手は195件・154社です。見えない資産の名義と承継可否は、企業概要書の段階では見えません。当社は売り手側で名義と契約条項を先に確認し、調査に入る前に開示します。どの資産を、どの水準で求めているかをお聞かせいただければ、条件に合う売り手が現れた段階でご連絡します。
買収をお考えの方へ
→ 案件を見る
→ 買収の相談をする
売却をお考えの方へ
→ 売却の相談をする
出典
- PBR中央値・のれん÷純資産:中小企業庁「登録支援機関を通じた中小M&Aの集計結果」2024年度。2026年8月30日確認
- 個人データの承継:個人情報の保護に関する法律 第18条第2項・第27条第5項第2号、および個人情報保護委員会「個人情報の保護に関する法律についてのガイドライン(通則編)」(平成28年11月・令和8年6月一部改正、2026年6月14日掲載)3-1-4および3-6-3。2026年9月4日確認
- heart relationの取得:yutori適時開示(2024年8月)および残余49%取得の公表(2026年4月)。営業利益・純資産は開示資料から取得し当社が年数を算出
- BASEへのTOB:同社適時開示(2026年8月28日)
- 買い手195件・154社:当社集計(2014年〜2026年8月に公表、公式発表・適時開示で確認)。集計日2026年8月30日
- 見えない資産の確認項目・棚卸しの様式:当社のEC・D2C売却支援における実務基準