会社を売ることを従業員にいつ言うか ── 「最終契約まで言わない」が正解になる条件
「社員には、いつ言えばいいですか」。売却のご相談で、価格の次に多い質問です。
答えは売り方で変わります。会社ごと譲る株式譲渡なら、伝える時期は経営者が決められる。事業だけを譲る事業譲渡なら、従業員一人ひとりの承諾がなければ雇用が移らないため、伝えることが手続きの一部になります。
同じ「売る」でも、時期を選べる範囲が違う。ここを分けずに一般論で決めると、早すぎるか遅すぎるかのどちらかになります。
この記事の結論は次の4つです。
- 株式譲渡は、最終契約が固まるまで全社には伝えません。検討段階の話は流れることがあり、流れた後に残るのは従業員の不安だけです
- 事業譲渡は、伝えることが法定の手続きです。労働契約の承継には民法第625条第1項にもとづく本人の承諾が必要で、承諾の前に十分な説明と協議を行うことが国の指針で求められています
- 先に伝える相手は「抜けたら止まる人」から。人数は最小限。買い手が面談を求める中核人材の処遇は、最終契約の交渉と同じ机で決めます
- 発表の日は起点であって終点ではありません。買い手が最も不安に感じているのも従業員の理解で、統合の準備を早く始めた企業ほど成果を実感しています
株式譲渡なら、伝える時期は経営者が決められる
株式譲渡では会社そのものが変わりません。会社と従業員が結んでいる労働契約はそのまま続き、変わるのは株主だけです。だから伝える時期に法律上の締め切りがなく、経営判断で決められます。
その裁量をどう使うか。実務の原則は、最終契約が固まるまで全社には伝えないことです。
破談が普通に起きるから。検討段階の話が流れることは珍しくありません。買い手の社内決裁が下りない、調査で前提が崩れる、条件が折り合わない。流れた後に会社へ残るのは、「うちは売られるらしい」という記憶と、それに反応して動き出した人の退職だけです。
不安は生活の問題になるから。従業員が譲渡の連絡から受け取るのは、自分の雇用と収入がどうなるかという問いです。確定していない情報で不安だけが先に届くと、判断の材料がないまま次を探す人が出ます。先に動くのは、他社からも求められる人です。
情報は一方向にしか進まないから。社内の1人に話せば、時間の問題で全員に伝わります。取り消しはできません。話す相手を増やす判断は、常に戻れない判断です。
冷たく見える原則ですが、守っているのは従業員の側です。確定していない話で人生の判断をさせない。それが伝える時期を遅らせる理由です。
事業譲渡は「伝える」が手続きになる
事業譲渡では雇用が自動では移りません。労働契約を移すには、従業員一人ひとりの承諾が要ります。根拠は民法第625条第1項で、使用者は労働者の承諾を得なければその権利を第三者に譲り渡せないと定めています。
厚生労働省の「事業譲渡又は合併を行うに当たって会社等が留意すべき事項に関する指針」(事業譲渡等指針。事業譲渡に関する部分は平成28年9月1日以降に締結された事業譲渡契約が対象)は、この承諾を得るまでの手順を具体的に示しています。指針が求めているのは次の内容です。
- 承諾を得るにあたり、譲渡の全体の状況(譲渡会社・譲受会社の債務の履行の見込みを含む)と、譲受会社の概要および労働条件(従事する業務の内容、就業場所、就業形態を含む)を十分に説明し、協議を行う
- 真意による承諾を得られるよう、時間的余裕をみて事前の協議を行う
- 労働条件を変更して承継させる場合は、変更についての同意を別に得る
- 労働組合等との協議は、遅くとも承継予定の従業員との協議の開始までに始める
さらに指針は、承諾しなかったことのみを理由とする解雇が労働契約法第16条により認められないこと、意図的に虚偽の情報を提供して得た承諾は民法第96条第1項で取り消され得ることにも触れています。つまり事業譲渡では、「伝えるか伝えないか」は選択肢ではありません。伝え方と時期の設計だけが残ります。
| 株式譲渡 | 事業譲渡 | |
|---|---|---|
| 労働契約 | 会社と従業員の間のまま継続。株主が変わる | 移すには本人の承諾が必要(民法第625条第1項) |
| 全社への開示時期 | 経営判断で決められる。原則は最終契約の後 | 転籍の対象者には最終契約の前に説明と協議 |
| 説明すべき内容 | 経営者が決める | 指針が例示(譲渡の全体状況/譲受会社の概要と労働条件) |
| 断られたとき | 発生しない | その従業員は移らない。断ったことだけを理由に解雇はできない |
| 有給・勤続年数 | そのまま通算される | 通算するかを個別に決めて契約に書く |
当社(CommerceX M&A)の見解では、事業譲渡で伝えるかどうかは選べません。転籍の承諾が要るからです。当社は主要な従業員の転籍同意をクロージングの前提条件に入れ、誰にいつ何を話すかを最終契約の交渉と同じ机で決めます。ここを後工程にすると、契約は結べたのに人が移らない状態になります。
誰に、いつ伝えるか
伝える相手は全従業員だけではありません。株主・幹部・中核人材・取引先・金融機関で、必要な時期も内容も違います。順番を先に決めておくと、途中で判断を迫られる場面が減ります。
| 伝える相手 | 時期 | 伝える内容 | その時期になる理由 |
|---|---|---|---|
| 配偶者・親族株主 | 検討を始める前 | 売却を検討すること、想定する条件 | 株主の同意がなければ手続きが進まない |
| 経理・財務の担当者 | 資料をそろえる段階 | 資料を出す目的(守秘の約束つき) | 決算・在庫・契約の一次資料は担当者しか出せない |
| 中核人材(キーマン) | 最終契約の交渉に入った段階 | 譲渡の事実、買い手の概要、本人の処遇 | 買い手が面談を求める。処遇の確約が契約条件になる |
| 転籍の対象者(事業譲渡) | 最終契約の前 | 譲渡の全体状況、譲受会社の概要と労働条件 | 承諾を得るための事前協議が指針で求められる |
| 役員・幹部 | 最終契約の締結前後 | 譲渡の事実、当面の体制と運営 | 発表の当日に現場の質問を受ける立場 |
| 全従業員 | 最終契約の締結後からクロージングまで | 雇用、決断の理由、買い手の紹介 | 破談の可能性が消えてから |
| 主要な取引先・仕入先 | クロージングの前後(買い手と相談) | 取引の継続と窓口 | 契約に支配権変更の条項があれば事前の通知や承諾が要る |
| 金融機関 | 買い手と相談のうえ | 借入と保証の扱い | 経営者の個人保証の解除と連動する |
区分と時期は当社がEC・D2Cの売却支援で用いている順番です。株主構成や許認可、労働組合の有無で前後します。
先に伝える相手は「抜けたら止まる人」から
中核人材への先行開示は、役職の順ではありません。その人が抜けたときに止まる業務の順です。
EC事業なら、モールのアカウントを実際に触っている人、広告の運用を握っている人、仕入先と直接話している人。役職がなくても、抜ければ翌日から数字が動きます。組織図の上から順に伝えると、名前は載っているが業務は止めない人に先に伝わり、止める人には最後に伝わることが起きます。
先行開示の設計は3点で決めます。
- 人数。「この人が抜けたら、引き継ぎに何日かかるか」で並べ、上から必要最小限まで
- 順番。買い手が面談を求める相手から。面談の前に本人が事実を知っている状態にする
- 約束。守秘の合意を書面で取り、同時に本人の処遇(役割・給与・在籍の期間)を先に示す
この設計で当社は、引き止めの期間を主役にしません。引き止めの期間を長く取っても、その人が抜けた後に残る組織の力は増えない。期間は問題の先送りです。買い手が本当に見ているのは、その人がいなくなっても事業が回るかどうか。だから先に伝える相手は、抜けたら止まる人から順に決めて、在籍の期間ではなく引き継ぎの中身を条件に書きます。
伝える日の3点セット
発表の日には、雇用・決断の理由・相手の紹介を同時に出せる状態にしておきます。このうち1つでも欠けると、欠けた部分を各自の想像が埋めます。
-
雇用がどうなるか。最初に話します。給与・賞与・休日・退職金・勤続年数の扱いを、決まっている範囲で具体的に。決まっていない項目は「未定」と言い、いつ決まるかを添えます。あいまいな安心より、確定した事実と確定していない事実の線引きのほうが不安を下げます。
-
なぜこの決断をしたのか。経営者本人の言葉で話します。ここは代読が成り立たない場面です。事業をどうしたいのか、なぜ自分ではなく買い手なのか。従業員が最も知りたいのは条件ではなく理由です。
-
相手がどんな会社か。買い手の事業、この事業をどうしたいのか、当面の運営を誰が見るのか。可能なら買い手にも同席してもらいます。発表の場に相手がいるかどうかで、その後の数週間の質問の量が変わります。
発表の形式も先に決めます。全員を一度に集めるか、部門ごとに分けるか。全員同時なら社内に情報の差が生まれません。分ける場合は同じ日のうちに全部門を終える。文書の配布は口頭の後。先に文書が回ると、経営者の言葉より紙の文面が記憶に残ります。
伝えた後の30日
従業員の気持ちが定まるのは発表の日ではなく、その後の数週間です。発表を計画の終点にすると、いちばん不安定な期間が無設計のまま過ぎます。
中小企業庁の2023年版中小企業白書は、買い手企業が挙げるM&Aの障壁の上位5つに「相手先従業員等からの理解を得られるか不安がある」が入ることを示しています。同じ白書は、経営統合(PMI。M&A成立後の統合作業)の検討を早く始めた企業ほど、M&Aで期待以上の成果を実感しているという結果も示しています。原資料は帝国データバンク「中小企業の事業承継・M&Aに関する調査」(2022年12月)です。
この2つを重ねると、発表後の設計は買い手にとっても売り手にとっても同じ関心事だと分かります。買い手が最も不安に思っているのは価格でも資産でもなく、従業員の理解です。だから発表後の進め方は、最終契約の交渉のときに一緒に決められます。
発表後30日に入れる3つです。
- 発表の当日か翌日に、個別の時間を取る。全体への説明だけで終えると、疑問が各自の中に残ります。中核人材とは一対一で、それ以外は少人数で
- 買い手が現場に来る日を先に決める。不安の正体は「知らない相手に処遇を握られる」ことです。相手の顔と方針が分かると、その不安は具体的な質問に変わります
- 当面は運営を変えない。発表の直後に制度や手順を変えると、従業員は変更の中身ではなく「これから何が変わるか分からない」ことに反応します
当社の見解では、経営者が残るから大丈夫、は成り立ちません。買い手の責任者が初日から現場にいない引き継ぎは、半年たっても現場が変わらない。従業員から見ても、何かあったときに誰に聞けばいいのかが分からないままになります。誰が現場の窓口かを、発表の場で名前で伝えます。
なお中小企業庁は、統合の進め方をまとめた「中小PMIガイドライン」(令和4年3月公表)で、取組を「経営統合」「信頼関係構築」「業務統合」の3領域に整理しています。従業員との関係づくりは業務の統合と並ぶ独立した領域という位置づけです。
雇用は交渉の論点になる
雇用の継続と処遇の維持は、売却条件の一部として交渉できます。「全員の雇用を維持すること」を条件にした譲渡は珍しくありません。誰に売るかを選べるのは売り手の権利です。
契約で書ける内容と、契約では届かない範囲を分けておきます。
| 契約の条項 | 何を定めるか | 契約では届かない範囲 |
|---|---|---|
| 雇用の維持 | 譲渡を理由とする解雇を行わない期間 | 業績の悪化を理由とする整理解雇までは封じられない |
| 労働条件の維持 | 給与・賞与・休日・退職金の水準と、維持する期間 | 制度の統合で細目は変わる。維持する項目を個別に列挙する |
| 中核人材の条件(クロージングの前提条件) | 主要な従業員の在籍や転籍の承諾を、実行の条件にする | 本人の意思。会社が代わりに承諾はできない |
| 残留一時金(リテンション) | 一定期間の在籍を条件に支払う一時金 | 負担者を売主か買い手かで決めておく |
| 引き継ぎ期間 | 前経営者の関与する期間と稼働の量 | 期間を伸ばしても、抜けた後に残る組織の力は増えない |
事業譲渡では、これに個別の整理が加わります。有給と勤続年数を通算するか、退職金債務をどちらが負担するか、未払残業があった場合に誰が補償するか。どれも譲渡の前に決めて契約に書く項目です。
「全員に早く伝える」が善意で失敗する理由
早く伝えることは誠実さの証明にはなりません。確定していない情報を渡すことは、判断できない材料を渡すことです。
早期の全社開示を選びたくなる動機は理解できます。隠しごとをしたくない、長く働いてきた人に不意打ちをしたくない。その動機は正しく、方法だけが合っていません。
検討段階で伝えられるのは「売却を検討している」という事実だけです。買い手が誰か、雇用がどうなるか、いつ決まるかは、まだ何も答えられません。受け取った側は、答えのない不安を数か月抱えることになります。そして相談する相手は社内にいません。経営者は当事者で、同僚も同じ立場です。
誠実さは時期の早さではなく、伝えた日の内容で示せます。雇用の答えを持ち、決断の理由を自分の言葉で話し、相手を紹介する。この3つが揃った日に伝えることが、いちばん誠実な伝え方です。
当社が売却を「事業と人の両方が次に進むこと」で測っているのも同じ理由です。買い手のもとで事業が続いて伸びること、そして売った人が次に進めること。伝える時期の設計は、その2つを両方成り立たせるための工程です。
この記事のまとめ
- 株式譲渡は労働契約がそのまま続く。伝える時期は経営判断で、原則は最終契約が固まるまで全社に伝えない
- 事業譲渡は雇用が自動で移らない。承継には民法第625条第1項にもとづく本人の承諾が要り、承諾の前に説明と協議を行うことが国の指針で求められる
- 伝える相手は株主・担当者・中核人材・全従業員・取引先・金融機関で時期が違う。順番を先に決める
- 先行開示は役職の順ではなく、抜けたら止まる業務の順。人数・順番・約束の3点で設計する
- 伝える日は雇用・決断の理由・相手の紹介の3点セット。買い手の同席を交渉の段階で決めておく
- 発表後30日の個別対話と、買い手が現場に来る日の設定まで含めて売却の設計
よくある質問
Q. 従業員に一切知られずに、売却を完了できますか。
A. 株式譲渡なら可能な場合があります。労働契約は会社との間で続くため、法律上は従業員への説明が実行の条件になりません。ただし買い手が主要な従業員との面談を求めるのが通常で、その面談が最終契約の前に入ります。事業譲渡では不可能です。転籍する従業員の承諾が必要で、承諾を得るための説明と協議が前提になります。
Q. 買い手が従業員との面談を求めてきました。応じるべきですか。
A. 応じる前提で、時期と人選を設計します。買い手にとって面談は、引き継ぎができるかを確かめる手段で、断ると条件が保守的になります。人選は「抜けたら止まる業務」の順に最小限まで。時期は最終契約の交渉に入った後。本人には面談の前に譲渡の事実と自分の処遇を伝え、守秘の合意を書面で取ります。
Q. 事業譲渡で、転籍を断る従業員が出たらどうなりますか。
A. その従業員は買い手側へ移りません。売り手に残るか、売り手との間で退職の手続きを取ることになります。断ったことだけを理由とする解雇は、労働契約法第16条により認められません。売り手には譲渡する事業以外の部門への配置転換など、雇用関係を維持するための措置が求められます。だから転籍の承諾は、最終契約の前に見通しを立てておく項目です。
Q. 発表の後に辞める人が出ないようにするには、何をすればいいですか。
A. 3つあります。発表の日に雇用の答えを具体的に示すこと、当日か翌日に一対一の時間を取ること、買い手が現場に来る日を先に決めることです。中核人材には、在籍の期間を縛る条項より、役割と権限を具体的に示すほうが効果があります。買い手が最も不安に感じているのも従業員の理解なので、この3つは買い手と一緒に設計できます。
ご相談ください
この記事の結論は「伝える時期は売り方で決まり、伝える日の内容で誠実さは示せる」でした。株式譲渡か事業譲渡かによって、選べる時期の幅が変わります。
売却をお考えの方へ。当社はEC・コマース事業の企業価値査定を無料で行っています。査定の段階で、想定するスキームと、そのスキームで従業員にいつ何を伝えることになるかを一緒に整理します。中核人材への先行開示の人数と順番、買い手との面談の設計もここに含みます。売る・売らないを決める前の段階からご相談いただけます。
買収をお考えの方へ。引き継ぎの成否は、発表の日より前に決まります。当社は売り手側で中核人材の範囲と処遇の論点を先に整理し、最終契約の交渉の段階で発表後の進め方まで一緒に決めます。どの業態で、どの体制まで引き受けられるかをお聞かせいただければ、条件に合う売り手が現れた段階でご連絡します。
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出典
- 事業譲渡における労働契約の承継と個別の承諾、事前協議・説明すべき事項:厚生労働省「事業譲渡又は合併を行うに当たって会社等が留意すべき事項に関する指針」(事業譲渡等指針。事業譲渡に関する部分は平成28年9月1日以降に締結された事業譲渡契約が対象。厚生労働省・都道府県労働局による概要資料は平成28年8月作成)。2026年9月4日確認
- 民法第625条第1項・民法第96条第1項・労働契約法第16条の各条文と適用:同指針の該当箇所。2026年9月4日確認
- 買い手企業が挙げるM&Aの障壁(上位5つ)、経営統合の検討開始時期別に見たM&Aの評価:中小企業庁「2023年版 中小企業白書の概要(エグゼクティブ・サマリー)」。原資料は(株)帝国データバンク「中小企業の事業承継・M&Aに関する調査」(2022年12月)。2026年9月4日確認
- PMIの3領域(経営統合・信頼関係構築・業務統合):中小企業庁「中小PMIガイドライン ~中小M&Aを成功に導くために~」(令和4年3月公表)。2026年9月4日確認
- 伝える相手と時期の区分、先行開示の人数と順番の考え方:当社のEC・D2C売却支援における実務基準
(本記事は一般的な解説です。個別の状況はご相談ください)