在庫3,000万円は売却価格に乗るのか ── EC売却で在庫が簿価で通らない理由
「在庫が3,000万円あります。これは売却価格に上乗せされますか」。EC事業の売却相談で、利益の次に多い質問です。
答えは「簿価のままでは乗りません」。在庫は買い手にとって、これから現金に変わる資産であると同時に、現金に戻らないまま残るリスクでもあります。買い手は在庫を「動く・滞留・動かない・売り物でない」の4つに分けて値段をつけます。
この記事の結論は次の4つです。
- 在庫は、のれん(営業権)とは別の枠で精算されます。希望価格が在庫込みか在庫別かで、買い手の見る倍率は1倍近く動きます
- 買い手は簿価で見ません。動く在庫は仕入原価、滞留在庫は値引き後に残る額、販売目的でない在庫は買取相場の時価です
- 在庫の質は、3つの数字で判定されます。回転日数・売上に対する在庫の比率・相場下落時の評価損です
- 準備は3か月前から間に合います。やることは処分・切り下げ・区分の3つで、隠すより先に出すほうが評価は上がります
在庫は「のれん」と別の枠で精算される
EC事業の売却価格は、のれん(営業権)と在庫の2階建てです。利益の何倍という計算で決まるのはのれんの部分で、在庫は別に数えます。
事業譲渡でも株式譲渡でも、この構造は変わりません。事業譲渡では「営業権◯円+在庫は引渡日の実費精算」という契約が一般的です。株式譲渡では譲渡価額に在庫が含まれますが、買い手は「純資産(在庫を含む)+のれん」と分解して見ています。
問題は、売り手の希望価格が「在庫込み」なのか「在庫別」なのかを、決めないまま話が進むことです。
| 希望価格の出し方 | のれんの実質 | 買い手の総支出 |
|---|---|---|
| 在庫込みの総額(例:1億円、在庫3,000万円) | 7,000万円 | 1億円 |
| のれんのみ+在庫は別に実費精算(例:1億円+在庫) | 1億円 | 1億3,000万円 |
同じ「1億円」でも、買い手が見るのれんは7,000万円と1億円で違います。修正後の営業利益が3,000万円なら、倍率は2.3倍と3.3倍。在庫が数千万円規模のEC事業では、この差がそのまま倍率1倍分になります。
当社(CommerceX M&A)は、価格の数字を議論する前に、その金額が在庫込みか別かを確定させます。ここを曖昧にしたまま進むと、同じ提示額でも倍率が1倍近く動く。基本合意の前に確認する第一の論点です。
買い手は簿価で見ない ── 在庫の4区分
買い手は在庫を4つに分け、区分ごとに違う値段をつけます。帳簿の在庫金額は出発点であって、答えではありません。
会計上も、在庫は帳簿価額のままでは置けません。棚卸資産の評価に関する会計基準(企業会計基準第9号)は、正味売却価額(売値から販売費用を引いた額)が帳簿価額を下回る場合、帳簿価額を正味売却価額まで切り下げると定めています。買い手の調査(デューデリジェンス)は、この切り下げが実態どおりに行われているかを確かめる作業です。
| 区分 | 目安 | 買い手のつける値段 | 売り手側の論点 |
|---|---|---|---|
| 動く在庫 | 直近90日以内に売れている品番 | 仕入原価(簿価)で引き継ぐ | 数量の実在と、仕入原価の証憑 |
| 滞留在庫 | 90〜180日売れていない品番 | 値引き後に残る額(正味売却価額) | 値引き率の根拠。過去の処分実績があれば強い |
| 動かない在庫 | 180日超、型落ち・シーズン切れ・期限間近 | 処分価額、またはゼロ | 引き継ぎ対象から外し、売り手が処分するのが通常 |
| 販売目的でない在庫 | サンプル・撮影用・展示用・検品用 | 買取相場の時価 | 簿価で足すと、のれんと二重計上になる |
4つ目の区分が見落とされがちです。撮影用の商品、展示会用のサンプル、検品用の現物。これらは「事業を回すための道具」であって売り物ではありません。
代表の齋藤浩喜は、当社が関わった買収検討でこの区分を見直しました。「販売できない在庫を簿価で足すと、その在庫が持つ機能の価値をのれんと二重に払うことになります。機能の価値はすでにのれん側に入っている。だから道具としての在庫は、買取相場の時価で見ます。棚卸簿価に対して2〜3割の評価減になった例があります」
売り手にとって大事なのは、この区分を買い手に指摘される前に自分で済ませておくことです。買い手が見つけた滞留在庫は減額の材料になり、売り手が先に区分した滞留在庫は誠実さの証拠になります。同じ在庫でも、出す順番で意味が変わります。
数字で見る ── 物販ECの純資産は在庫でできている
物販EC事業の純資産は、その大半が在庫と売掛金です。在庫の評価が変われば、純資産の評価が直接変わります。
市場の規模から確認します。経済産業省の調査では、2024年の物販系分野のBtoC-EC市場規模は15兆2,194億円、EC化率は9.78%でした(前年比3.70%増・0.40ポイント上昇)。物販ECは、いまも年3〜4%で伸びている市場です。
M&Aの側から見ると、中小企業庁の集計で2024年度に譲渡側となった卸売業・小売業は792件。全業種4,940件の16.0%を占め、医療・福祉に次ぐ2番目の業種です。
その卸売業・小売業の評価倍率がこれです。
| 卸売業・小売業(2024年度) | 第1四分位 | 中央値 | 第3四分位 |
|---|---|---|---|
| PBR(譲渡価額÷純資産) | 0.7倍 | 1.2倍 | 2.2倍 |
| EV/EBITDA | 3.8倍 | 7.7倍 | 14.9倍 |
PBRの中央値は1.2倍。下位4分の1は0.7倍で、純資産を割っています。純資産を割るということは、帳簿の在庫が帳簿どおりには売れないと買い手が判断した、ということです。
物販ECの貸借対照表は、現金・売掛金・在庫でほぼ構成されます。設備も不動産もない。つまり在庫の評価は、そのまま純資産の評価です。在庫が簿価で通れば純資産は帳簿どおり、通らなければ純資産が目減りします。のれんの議論を始める前に、在庫で純資産の土台が動きます。
買い手が見る3つの指標
買い手は在庫の質を、回転日数・在庫比率・感応度の3つで測ります。この3つを自分で計算しておけば、買い手と同じ地面で話ができます。
1. 在庫回転日数
在庫回転日数 = 期末在庫 ÷ 年間の売上原価 × 365
在庫が何日分あるかを示す数字です。回転が短い事業ほど、長期滞留が構造的に起きにくいと判断されます。
目安として、回転日数が30日以内なら在庫評価で減額される余地はほとんどありません。90日を超えると、買い手は品番別の内訳を求めます。180日を超えると、滞留在庫の切り分けが前提になります。
見られるのは水準より推移です。過去12か月の平均より30日以上長くなっていれば、売上の伸びを超えて仕入れている状態で、買い手はそこを確認します。
2. 在庫比率(在庫エクスポージャー)
在庫比率 = 期末在庫 ÷ 年商
年商に対して在庫がどれだけ重いか。この数字が小さいほど、相場や流行の変化が事業に与える影響は限定的です。
年商1億円で在庫1,000万円なら10%。年商1億円で在庫4,000万円なら40%。後者は仕入価格が1割下がると、営業利益の相当部分が評価損に消える構造です。
3. 感応度(相場が下がったときの評価損)
評価損の試算 = 期末在庫 × 想定下落率(10〜20%)÷ 修正後の営業利益
買い手が計算する前に、売り手が先に計算して出す数字です。
当社はこの試算を、売り手側から先に出します。相場が1〜2割下がったときの評価損が営業利益の何%になるかを、当社が先に試算して概要書へ記載する。買い手に計算させると、買い手は保守的に計算します。売り手が根拠つきで出せば、その数字が議論の起点になります。
3つの指標を一覧にします。
| 指標 | 計算 | 減額されにくい水準 | 内訳を求められる水準 |
|---|---|---|---|
| 在庫回転日数 | 期末在庫÷売上原価×365 | 30日以内 | 90日超 |
| 在庫比率 | 期末在庫÷年商 | 10%以下 | 30%超 |
| 感応度 | 在庫×下落率÷営業利益 | 営業利益の10%以下 | 営業利益の30%超 |
水準は当社がEC・D2Cの売却支援で用いている目安です。商材によって適正な回転は異なり、季節商材や受注生産は別に見ます。
デューデリジェンスで必ず聞かれること
買い手の調査で在庫について聞かれる項目は、ほぼ決まっています。先に用意した売り手ほど調査は短い。減額の材料も少なくなります。
- 品番別の内訳と最終販売日。SKU別に数量・仕入原価・最終販売日を一覧にしたもの。90日超・180日超の品番が自動で分かる形
- 実在の確認。帳簿の在庫と、倉庫やモールの在庫レポートが一致しているか。Amazon FBAや外部倉庫に預けている在庫は、レポートの日付と帳簿の日付を揃える
- 評価の根拠。仕入原価の請求書、値引き販売の実績、過去の廃棄・処分の記録
- 引当の有無。滞留や陳腐化に対する評価損を計上しているか。していないなら、その理由
- 消費期限・シーズン。食品・化粧品・サプリメントは期限別の残量。アパレルはシーズン別の残量
- 販売目的でない在庫の区分。撮影用・サンプル・検品用を売り物と分けているか
- 在庫保険と過去の損失。盗難・破損・水濡れなどの損失履歴と、再発防止の対策
- 仕入先との条件。返品の可否、最低発注数量、発注から納品までの日数(引き継ぎ後の在庫計画に直結する)
中小企業庁の「中小M&Aガイドライン(第3版)」(2024年8月)は、譲受側が財務状況の分析をふまえて複数の方法でバリュエーションを行うことを求めています。在庫の時価評価は、その財務分析の中心にある項目です。買い手が在庫を細かく聞くのは、疑っているからではなく、ガイドラインに沿った手順だからです。
売り手が3か月前からできる準備
やることは処分・切り下げ・区分の3つです。どれも決算をまたがずにできます。
1. 動かない在庫を処分する
180日超の在庫は、引き継ぎ対象から外れることがほとんどです。持ったまま売却に入ると、買い手の調査で「この在庫はゼロ評価」と指摘され、純資産の減額として全体の価格に響きます。
セール・アウトレット・卸売・買取業者。手段は問いません。帳簿から消して現金に変えておくほうが、引き継ぎ時に議論の対象から外れます。Amazon FBAの在庫は保管日数に応じて追加の保管手数料がかかるため、滞留在庫はコストの面でも早く動かす理由があります。
2. 帳簿を先に切り下げる
滞留在庫の評価損を、売却の前に自分で計上する。これが2つ目の準備です。決算書の利益は一時的に下がりますが、一過性の損失なので利益修正で戻せます。買い手に見つけられて減額されるより、売り手が先に処理して「修正後の利益」で説明するほうが、のれんの議論を守れる。
利益修正の考え方は、EC事業は「利益の何倍」で売れるのか ── 中央値11.6倍、同じ業種で3.7倍開く理由で説明しています。
3. 在庫を区分して、資料に書く
売り物の在庫と、道具としての在庫を分けます。売り物は回転日数の区分ごとに数量と金額を出します。
そのうえで、企業概要書には簿価で書き、時価と滞留は買い手の調査で確認いただく事項だと明示します。
当社は概要書での書き方も定めています。時価が売主の説明だけで裏づけのない段階なら、概要書には簿価で書きます。そして時価と滞留は買い手の調査で確認いただく事項だと、先に明示する。後から判明すると評価が変わる項目は、当社から先に開示します。
準備の順番と期間
| 時期 | やること | 目的 |
|---|---|---|
| 3か月前 | SKU別の在庫一覧を作り、90日・180日で区分 | 現状を数字で把握する |
| 3か月前〜 | 180日超の在庫を処分。処分実績を記録 | 動かない在庫を帳簿から消す |
| 2か月前 | 滞留在庫の評価損を計上。撮影用等を区分 | 買い手に見つけられる前に切り下げる |
| 1か月前 | 3つの指標を計算し、概要書に載せる | 買い手と同じ物差しで説明する |
| 打診の前 | 希望価格が在庫込みか別かを決める | 倍率の議論を1つにする |
「在庫が多いから高く売れる」は逆
在庫はのれんに変わりません。在庫は現金の別の姿であり、のれんは在庫を売る力の値段です。
在庫が多い事業を「資産が厚い」と見る売り手は少なくありません。しかし買い手の見方は逆です。在庫が多いということは、現金が在庫に変わったまま戻っていないということ。買い手は引き継いだ後、その在庫を現金に戻す作業から始めます。
このことを最も大きな規模で示したのが、Amazonの小規模ブランドを買い集めたThrasioです。同社は34億ドルを調達して数百のブランドを買収しましたが、2024年2月28日に米連邦破産法第11章を申請しました。原因は特需の終わりと、過剰な借入、そして在庫の滞留です。買い集めたブランドの在庫が現金に戻らず、借入の返済が先に来ました。
在庫が価値になるのは、回転しているときだけです。評価されるのは在庫の金額ではなく、在庫が何日で現金に戻るかです。
この記事のまとめ
- 在庫はのれんと別枠。希望価格が在庫込みか別かを、価格の議論の前に決める
- 買い手は在庫を4区分で見る。動く在庫は簿価、滞留は正味売却価額、動かない在庫はゼロ、道具は時価
- 物販ECの純資産は在庫でできている。中小M&Aの卸売業・小売業のPBR中央値は1.2倍、下位4分の1は0.7倍で純資産を割る
- 回転日数・在庫比率・感応度の3つを自分で計算しておく
- 準備は処分・切り下げ・区分の3つ。3か月前から間に合う
- 在庫の金額は評価されない。評価されるのは、在庫が現金に戻る速さ
よくある質問
Q. 在庫3,000万円は、売却価格に上乗せされますか。
A. 簿価のままでは上乗せされません。90日以内に動いている在庫は仕入原価で引き継がれ、滞留在庫は値引き後の額、180日超の在庫はゼロ評価が通常です。上乗せされる金額は、在庫3,000万円の中身しだいです。SKU別の最終販売日を出せば、その場でおおよその引き継ぎ額が分かります。
Q. 事業譲渡で在庫は「別途精算」と言われました。損ですか。
A. 損ではありません。むしろ希望価格がのれんだけの意味になるので、倍率の議論が明確になります。注意点は精算の基準です。仕入原価か、正味売却価額か、どの日の棚卸を使うか。この3点を基本合意の段階で文書にします。
Q. 滞留在庫を処分すると赤字になります。それでも処分すべきですか。
A. 処分すべきです。処分損は一過性の費用なので、利益修正で戻せる。処分しないまま買い手に見つかると純資産の減額として価格に響き、「把握していなかった売り手」という印象も残ります。先に処分した売り手のほうが、のれんの評価を守れる。
Q. 在庫回転日数は何日なら問題ないですか。
A. 30日以内なら在庫評価で減額される余地はほぼありません。90日を超えると品番別の内訳を求められ、180日を超えると滞留在庫の切り分けが前提になります。ただし見られるのは水準より推移です。過去12か月平均から30日以上長くなっていれば、水準にかかわらず確認されます。
ご相談ください
この記事の結論は「在庫の金額ではなく、在庫が現金に戻る速さが評価される」でした。在庫の区分と3つの指標は、売却の3か月前から整えられます。
売却をお考えの方へ。当社はEC・コマース事業の企業価値査定を無料で行っています。SKU別の在庫一覧をお持ちいただければ、引き継がれる在庫の額と、のれんの実勢を分けてお出しします。希望価格を在庫込みにするか別にするかも、査定の段階で一緒に決めます。売る・売らないを決める前の段階からご相談いただけます。
買収をお考えの方へ。在庫の質は、概要書の段階ではまだ見えません。当社は売り手側で3つの指標と区分を先に整え、調査に入る前の段階で開示します。どんな商材を、どの在庫水準まで引き受けられるかをお聞かせいただければ、条件に合う売り手が現れた段階でご連絡します。
買収をお考えの方へ
→ 案件を見る
→ 買収の相談をする
売却をお考えの方へ
→ 売却の相談をする
出典
- 物販系BtoC-EC市場規模・EC化率:経済産業省「令和6年度電子商取引に関する市場調査」(2025年8月26日公表)。2026年9月4日確認
- 中小M&Aの件数・評価倍率:中小企業庁「登録支援機関を通じた中小M&Aの集計結果」2024年度。2026年8月30日確認
- バリュエーションの手順:中小企業庁「中小M&Aガイドライン(第3版)」(2024年8月)
- 在庫の評価:企業会計基準委員会「棚卸資産の評価に関する会計基準」(企業会計基準第9号)
- Thrasio:同社の米連邦破産法第11章申請(2024年2月28日)の公表情報
- 在庫の4区分・3つの指標の水準:当社のEC・D2C売却支援における実務基準