EC事業は「利益の何倍」で売れるのか ── 中央値11.6倍、同じ業種で3.7倍開く理由
「うちは、いくらで売れますか」。売却のご相談で最初に聞かれる質問は、いつもこれです。
答えの形は決まっています。修正後の営業利益に倍率を掛ける。ただし同じ会社でも分母の作り方で金額は倍近く変わり、倍率のほうは公的統計で下位25%と上位25%が3.7倍開いています。
「相場」という一本の数字は存在しません。あるのは分母と倍率の2つで、どちらも売り手側から動かせます。この記事では、その2つが何で決まるのかを公表統計と実際の取引で確かめられる範囲だけ書きます。
この記事の結論は次の4つです。
- 値段の形は「修正後の営業利益 × 倍率」。売上の倍数ではありません。会社ごと売るなら、ここに現預金を足して借入を差し引きます
- 分母は決算書の営業利益ではありません。役員報酬・一過性の費用・事業と無関係の費用を戻した後の利益が分母です
- 倍率の実勢は、中小企業庁の集計で卸売業・小売業のPER中央値11.6倍。下位25%が5.7倍、上位25%が21.0倍で、同じ業種の中に3.7倍の開きがあります
- その開きを作っているのは事業の中身ではなく、中身に反応した買い手が何社いるかです
値段の形
EC事業の評価は、修正後の営業利益に倍率を掛けた金額から始まります。
事業の値段 = 修正後の営業利益 × 倍率
この形は当社(CommerceX M&A)の独自ルールではありません。中小企業庁の「中小M&Aガイドライン(第3版)」は、中小M&Aでは簿価純資産法・時価純資産法・類似会社比較法(マルチプル法)で算定した価値をもとに譲渡額を交渉するケースが多いとしたうえで、交渉の結果として「簿価純資産法又は時価純資産法で算出された金額に数年分の任意の利益(税引後利益又は経常利益等)を加算する場合等もある」と書いています。純資産に利益の数年分を足す、いわゆる年買法の説明です。
同じガイドラインは、算出された金額がそのまま譲渡額になるわけではないこと、当事者同士が最終的に合意した金額が譲渡額であることも明記しています。計算は交渉の出発点であって、着地点ではありません。
売り方によって、この計算に何を足し引きするかが変わります。
| 売り方 | 計算 | 注意点 |
|---|---|---|
| 株式譲渡(会社ごと) | 事業の値段 + 現預金 − 借入 | 会社に残る資産と負債がすべて引き継がれる |
| 事業譲渡(事業だけ) | 事業の値段(=営業権) + 引き継ぐ資産の実費 | 在庫・敷金は別に精算するのが一般的 |
事業譲渡で在庫を別に精算する場合、希望価格が在庫込みか在庫別かで営業権の実質が大きく変わります。この論点は在庫3,000万円は売却価格に乗るのか ── EC売却で在庫が簿価で通らない理由で扱っています。
分母を作る ── 利益修正
決算書の営業利益は、そのままでは分母になりません。買い手が見たいのは引き継いだ後に残る利益であり、決算書の利益は節税と経営者の事情を通過した後の数字だからです。
この調整を当社では利益修正と呼びます。代表的な項目がこれです。
| 修正項目 | 内容 | 買い手が確認する資料 |
|---|---|---|
| 役員報酬 | 経営者の報酬を、引き継ぎ後に必要な人件費の水準へ置き直す | 役員報酬額の推移、後任の想定年収 |
| 一過性の費用 | 移転費用・訴訟費用・システムの初期構築費など、翌期に発生しないもの | 総勘定元帳、契約書、請求書 |
| 事業と無関係の費用 | 経営者個人の車両・保険・交際費 | 元帳の摘要、支払先の明細 |
| 事業に必要だが計上されていない費用 | 経営者が無償でやっていた業務を外注に置き換えた場合の費用 | 業務の棚卸し、外注見積 |
4行目を忘れる売り手が多いところです。経営者が自分で回していた広告運用やカスタマーサポートは、引き継ぎ後に誰かの人件費や外注費に変わります。これを差し引かない利益修正は、買い手の調査(デューデリジェンス)で必ず戻されます。
当社の見解では、買い手が自分の販路や既存事業との組み合わせで新しく作る利益は、売り手の利益修正に含めません。計算の対象は、事業がいまのまま残す利益までです。大きく見せると調査で崩れ、崩れた分だけ倍率まで下がります。
利益修正は、売り手にとって値段を上げる作業であると同時に、崩されない数字を作る作業です。決算書の営業利益が800万円でも、役員報酬の調整1,200万円が正当なら分母は2,000万円になります。倍率が3倍なら、事業の値段は2,400万円と6,000万円で違います。分母のほうが倍率より金額への影響は大きい。
倍率の実勢 ── 公的統計の四分位
倍率の実勢は、公的統計で確認できます。中小企業庁は、登録支援機関から報告のあった成約済みのM&Aを集計し、業種別の評価倍率を公表しています。2024年度の譲渡側の報告は4,940件、うち卸売業・小売業は792件です。
その卸売業・小売業の倍率がこれです。
| 卸売業・小売業(2024年度) | 第1四分位 | 中央値 | 第3四分位 | 開き |
|---|---|---|---|---|
| PER(譲渡価額÷利益) | 5.7倍 | 11.6倍 | 21.0倍 | 3.7倍 |
| EV/EBITDA | 3.8倍 | 7.7倍 | 14.9倍 | 3.9倍 |
| PBR(譲渡価額÷純資産) | 0.7倍 | 1.2倍 | 2.2倍 | 3.1倍 |
第1四分位は安いほうから4分の1の位置、第3四分位は高いほうから4分の1の位置です。
同じ業種の中で、下位25%と上位25%が3.7倍違います。業種で相場が決まっているなら、これほど開きません。相場は業種ではなく個別の事情で決まっている、というのが統計から読める最初の事実です。
業種をもう一段細かく見ると、差はさらに広がります。
| 業種(中分類) | PBR中央値 | サンプル |
|---|---|---|
| インターネット附随サービス業 | 7.0倍 | 27件 |
| 飲食料品小売業 | 2.0倍 | 48件 |
| その他の小売業 | 1.3倍 | 102件 |
| 各種商品小売業 | 0.8倍 | 34件 |
純資産の7倍で売れる領域と、純資産すら下回る領域が、同じ「中小M&A」の中に同居しています。
「EV/EBITDA 7.7倍」と現場の「3〜5倍」は同じ倍率ではない
統計の7.7倍と、買い手が口にする3〜5倍は、計算の中身が違います。この2つを並べて比べても意味がありません。
違いは分母と分子の2か所です。
| 中小企業庁の EV/EBITDA | 買い手が言う「EBITDAの5倍」 | |
|---|---|---|
| 分母 | 営業利益+減価償却費(利益修正の前) | 利益修正の後のEBITDA |
| 分子 | EV(譲渡価額+有利子負債−現預金) | 譲渡価額そのもの |
分母は修正前のほうが小さく、分子はEVのほうが大きい。だから統計の倍率は高く出ます。借入のある物販事業ほど、この差は開きます。
事例の倍率を読むときは、必ずこの2点を確認してください。分母が修正前か修正後か。分子が譲渡価額かEVか。ここを揃えないまま「相場は7.7倍らしい」と交渉に臨むと、買い手の提示が不当に低く見えます。
規模が上がると、倍率も上がる
同じ業種でも、対象会社の規模が大きいほど倍率は高くなります。中小企業庁の集計は、純資産の規模別にPERの中央値を出しています。
| 対象会社の純資産 | PER中央値 |
|---|---|
| 5百万〜1千万円 | 8.0倍 |
| 5千万〜1億円 | 10.1倍 |
| 1.5億〜2億円 | 13.3倍 |
| 3億〜5億円 | 14.9倍 |
| 5億円超 | 14.2倍 |
5百万円規模と3億円規模で、倍率が2倍近く違います。買い手から見れば、小さい会社ほど引き継ぎの手間が売上に見合わず、リスクの幅も相対的に大きくなるためです。
ここから実務的な結論が1つ出ます。倍率を交渉で上げるより、利益を伸ばすほうが確実です。営業利益3,000万円の事業で倍率を3倍から5倍へ引き上げても増えるのは6,000万円。一方、営業利益を5,000万円まで伸ばせば、3倍のままでも6,000万円増えます。しかも規模が上がれば倍率も上がる。
倍率を動かしているのは、買い手の数
倍率は事業の中身で決まるのではなく、その中身に反応した買い手が何社いるかで決まります。
当社は上場企業の適時開示から、EC・コマース領域の買収8件について対象会社の営業利益と純資産を1件ずつ取得し、のれんが営業利益の何年分にあたるかを計算しました。結果は1.3年分から10.2年分、中央値5.0年分です。事業承継型の会社で語られる1〜3年分を上回ります。
年数の長い側と短い側を並べると、順序が説明できます。長い側は美容機器メーカーやアパレルブランドで、買い手にとってほかに買えるものがない対象でした。短い側はOEM受託や広告代理で、発注元や担当者が変われば利益が消える構造です。
替えが見つからないから複数の買い手が本気になり、その競争が倍率を作ります。替えがないこと自体が値段を上げるのではありません。
当社の見解では、売り手側が価格を守れるかどうかは買い手の数で決まります。1社としか話していない状態では、その1社の提示が上限になります。倍率を交渉で動かす方法は本質的に1つしかなく、本気で検討する買い手を複数作ることです。誰に打診するかは売り手が決めますが、複数にするかどうかで結果が変わります。
当社は買い手としても事業を取得しています。その立場で価格を出すときも、入口で値切る規律は設けません。市場の実勢で提示し、引き継いだ後に伸ばした利益に対して割安かどうかで判断します。売り手側から見れば、実勢を下回る提示に応じる理由はないということです。
倍率が上がる要素・下がる要素
倍率とは、この利益が経営者の手を離れても続くと買い手が信じられる度合いです。
| 方向 | 要素 | 買い手が確認するもの |
|---|---|---|
| 上がる | 定期購入・リピートの比率が高い | 定期の継続率、解約率の推移 |
| 上がる | 独自商品・独占販売権・ブランドがある | 商標、契約書、価格の維持実績 |
| 上がる | 少人数と仕組みで回っている | 業務の手順書、外注比率 |
| 上がる | 売上と利益が伸びている | 月次の推移、広告費との関係 |
| 下がる | 売上が1つのモール・1つの広告手法に集中 | チャネル別の売上構成 |
| 下がる | 経営者個人の発信力・技能で売れている | SNSの運用者、指名の発生源 |
| 下がる | 在庫が重い、または評価しにくい | 回転日数、滞留在庫の内訳 |
| 下がる | 直近の業績が下降している | 直近12か月の月次 |
このうち在庫は、倍率ではなく別枠の精算に影響します。詳しくは在庫3,000万円は売却価格に乗るのか ── EC売却で在庫が簿価で通らない理由をご覧ください。
「売上の何倍」では決まらない
年商は値段の物差しになりません。「年商3億円だから3億円くらいで売れますか」という質問は、売却相談で最も多い誤解です。
同じ年商3億円でも、営業利益3,000万円の事業と赤字の事業では値段が何倍も違います。買い手が買っているのは売上ではなく、売上から費用を引いた後に残る現金だからです。
架空の計算例を1つ示します。決算書の営業利益800万円。役員報酬の調整1,200万円を利益修正として加えると、分母は2,000万円。倍率3倍で事業の値段は6,000万円。株式譲渡なら、ここに現預金を足して借入を差し引いた金額が株式の値段になります。決算書の800万円だけを見ていた売り手にとって、この差は小さくありません。
逆もあります。決算書の利益が出ていても、その利益が経営者本人の関係で取れた1社に支えられている場合、買い手は引き継げない利益として倍率を下げます。評価とは、利益の量に利益の質を掛け合わせる作業です。
自社の相場を、自分で概算する
4つの手順で、交渉に入る前におおよその位置が分かります。
- 分母を作る。直近12か月の営業利益に、役員報酬の差額・一過性の費用・事業と無関係の費用を戻す。同時に、経営者が無償でやっていた業務の外注費を差し引く
- 倍率の幅を当てはめる。当社がEC・D2Cの売却支援で用いる中心の水準は、時価純資産に修正後EBITDAの2.5〜4.0倍を加えた範囲です
- 売り方で調整する。株式譲渡なら現預金を足して借入を差し引く。事業譲渡なら在庫と敷金を別に数える
- 希望額との距離を測る。計算した範囲と、自分が望む金額との差を確認する
当社は査定で単一の評価額を出しません。出すのは現在地のレンジと、希望額までの距離と、そこへ近づく方法です。売主が知りたいのは自分の点数ではなく、どうすれば希望額に届くかです。
近づく方法は4つあります。利益修正で分母の実力を確かめること。買い手を複数にして競争を作ること。アーンアウト(引き継ぎ後の業績に連動する後払い)で希望額との差を埋めること。そして税引後の手取りで比較すること。
なお、この中心の水準は当社がEC・D2Cの売却支援で用いている目安です。中小企業庁のガイドラインが求めるとおり、実際の評価は時価純資産法・マルチプル法・DCF法など複数のアプローチで行い、事業の特性に応じて手法を選びます。ガイドラインは、両当事者から依頼を受ける仲介会社が確定的なバリュエーションを実施すべきではないとも定めています。誰が出した数字なのかは、金額と同じくらい重要です。
この記事のまとめ
- 値段の形は「修正後の営業利益 × 倍率」。年商の倍数ではない
- 分母は決算書の営業利益ではない。役員報酬・一過性の費用・無関係の費用を戻し、無償で回していた業務の外注費を差し引く
- 倍率の実勢は卸売業・小売業でPER中央値11.6倍。下位25%と上位25%が3.7倍開く
- 統計のEV/EBITDA 7.7倍と、買い手の言う3〜5倍は分母も分子も違う
- 規模が上がると倍率も上がる。倍率を交渉するより利益を伸ばすほうが確実
- 倍率を動かしているのは、本気で検討する買い手が何社いるか
よくある質問
Q. 年商3億円、営業利益2,000万円です。いくらになりますか。
A. 分母を確定させないと答えは出ません。営業利益2,000万円に役員報酬の差額や一過性の費用を戻すと分母は変わり、経営者が無償で回していた業務があれば逆に下がります。分母が確定した後、EC・D2Cでは修正後EBITDAの2.5〜4.0倍を中心に、時価純資産を加えた範囲で見ます。年商3億円という情報からは、この計算のどの部分も決まりません。
Q. 「営業利益の3倍」と言われました。妥当ですか。
A. その提示が上限かどうかは、いま何社が検討しているかで決まります。当社が適時開示から確認した8件では、のれんが営業利益の1.3年分から10.2年分まで開き、中央値は5.0年分でした。1社としか話していない状態なら、3倍という提示を動かす材料が売り手側にありません。
Q. EV/EBITDA 7.7倍という数字を見ました。自社に当てはまりますか。
A. そのままは当てはまりません。中小企業庁のEV/EBITDAは、分母が利益修正前の「営業利益+減価償却費」、分子が譲渡価額に有利子負債を足して現預金を引いたEVです。買い手が口にする倍率は、分母が利益修正後、分子が譲渡価額そのもの。分母も分子も違うため、数字だけを比べると判断を誤ります。
Q. 査定には何が必要ですか。
A. 直近3期分の決算書と、あれば月次の売上・利益、商品別とチャネル別の内訳です。加えて、役員報酬の額と、経営者が自分で回している業務の一覧があると分母の精度が上がります。すべて揃っていなくても概算は出せますので、手元にあるものからご相談ください。
ご相談ください
この記事の結論は「相場を動かすのは分母と、本気で検討する買い手の数」でした。どちらも売却の前に整えられます。
売却をお考えの方へ。当社はEC・コマース事業の企業価値査定を無料で行っています。決算書から利益修正を計算し、単一の評価額ではなく現在地のレンジと希望額までの距離をお出しします。そのうえで、公表実績にもとづいて買い手候補を洗い出し、複数社に同時に検討していただく形を設計します。誰に打診するかは、必ず売り手が決めます。売る・売らないを決める前の段階からご相談いただけます。
買収をお考えの方へ。利益修正の中身は、企業概要書の段階では見えにくい部分です。当社は売り手側で修正の根拠を一次資料まで確認し、調査に入る前に開示します。どの利益規模の、どんな商材を引き受けられるかをお聞かせいただければ、条件に合う売り手が現れた段階でご連絡します。
買収をお考えの方へ
→ 案件を見る
→ 買収の相談をする
売却をお考えの方へ
→ 売却の相談をする
出典
- 譲渡額の算定方法・バリュエーションの手法・仲介会社の位置づけ:中小企業庁「中小M&Aガイドライン(第3版)」(2024年8月公表)。2026年9月4日確認
- 中小M&Aの件数・評価倍率(PER・EV/EBITDA・PBR、業種別PBR、純資産規模別PER):中小企業庁「登録支援機関を通じた中小M&Aの集計結果」2024年度。2026年8月30日確認(2024年度の譲渡側4,940件は2026年9月4日に再確認)
- のれん年数の実測8件:上場企業の適時開示から対象会社の営業利益・純資産を取得し当社が算出。集計日2026年8月30日
- 利益修正の項目・倍率の中心レンジ:当社のEC・D2C売却支援における実務基準
(本記事は一般的な考え方の解説であり、個別の評価額を保証するものではありません)